えーりはもやしを見ると思い出すことがある。
それは小学生の頃に聞いたオジー の言葉。
今回は今なお忘れられないでいる話を伝えたいと思う。
今も昔も もやしは野菜の中では低価と供給が安定し、消費者の味方とも言える食材だ。
子供の頃は給料日間近になるとかなりの頻度で食卓に もやしチャンプルーが出た。
だから経済観念のない子供のえーりにも家計のピンチをうすうすでも感じたものだ。
その頃オジー が前触れもなく話しはじめた。
オジー:オジー の子供時代は口減しってのがあってな、男の子は※糸満売り、女の子は奉公として親元から離されることが珍しいことではなかったんだよ。
※ 糸満売り:10歳前後の貧困層の少年が前借金と引き換えに沖縄本島南部の糸満の漁師のもとで年季奉公すること
えーり:えっ⁉️ 口減し? 親元から離す?
口減しがどういうものかわからなくとも、親から離れるということが胸に刺さった。
オジー :そうだ
えーり :なんで?
オジー :昔はご飯が食べられないぐらい貧しくて、子供を奉公に出してその奉公先で働いてご飯をもらうんだよ。
口減しで奉公に出すと聞いてえーりは固まってしまった。
ご飯が食べれないからといって子供を外に出す。
親にそんな事ができるの?
なんで?
その時、えーりの中で怒りと不安が複雑に入り交じっていた。
聞くと、男の子の奉公は過酷で、まるで人間鵜飼のようだったと。
女の子は雇われた先の子供をおぶりながら家事をさせられたとか、、、
その時、えーりは自分の身体を見て、この歳で、この身体つきでそんな辛い奉公を強いられていたのを聞いて呼吸が止まっていた。
幸にしてオジーはそんな経験はなかったが、オバーはそうではなかった。
オバーは9人の兄弟の長女だったため 口減しに出されていた。オバーは親兄弟を想うあまり毎日泣きくらした幼少期だったとオジー から聞いて、あまりのショックにえーりは涙さえも出なかった。
どんなだったのだろう
幼くして家族と離れることが、、、
子としてのオバーの気持ちは十分すぎるほどわかるし、親のひいばあちゃんの気持ちを考えると胸が張り裂けそうになった。
どちらにとっても辛すぎる経験にえーりは頭を垂れた。
その時 オジー は
こんな経験は誰にとっても辛いものだよな。決して満足に食べれなかったとしても子供は親と一緒にいたいもの。親もまた同じ。いいか覚えておけ! 子供だけは手放してはならない! どうだったとしても子を手放すものではない!よーく覚えておきなさい。ひもじい思いをしても心をひもじくさせてはいけない!
そう話すオジー にも致し方なくなのだということは伝わってくる。飢え死にさせるわけにいかなくてのことだというのも時代背景から伝わる。
それにしても、、、
あまりにも痛い
えーりはまだ小学生だったが、あの時のオジー の言葉を忘れないでいる。
そしてもやしを見るたびに今でもこの会話を思い出す。
“もやしだけ食べてでも子供は手放すな!”
生きることで精一杯だったオジー たち先人たちの言葉はただの躾けるためだけの言葉ではなく言霊だとえーりは受け止めている。
だから忘れることなくえーりの中に残っているのではないかと思う。
ここでえーりが思うことは、ご飯、食事は何を食べるかよりも、誰と食べるかがとても大事になることもあるってこと。
奉公先ではひもじい思いをすることはなかったと言うが、家族への想いで寂しさが埋まることがなかったことは容易に分かる。
実際オバーは年老いてもなお、奉公に出された時の淋しさを口にしていたのを聞いていた。
まさに“三つ子の魂百までも“とはこのことだ
今思うのは、オジーが前触れもなく 口減しの話をしてくれたのは、給料前の連日続いたもやしチャンプルーに 口にしなかったとはいえ、不満に感じていたえーりを感じ取ってのことだと思う。
家族が揃うという当たり前の現代からすると想像できない悲しい時代を過ごしてきた先人たち。だからこそ、どんな食事であっても家族で囲むことができること、一緒にいられることがどれだけ大切なのかわかるのだ。
そんな人たちを前に、家族と居られることを当たり前とし、些細なことに不満を抱き 感謝できないのは人としてえーりは間違っていた。
そんな例えがないと日々に感謝できないというのは、人として本当におかしい。
“もやしだけを食べてでも子は手放すな!”
えーりもオジー が言いたかったことがわかる歳になった。
これからもオジーから気づかせてもらった大切なことを惜しみなく 伝えていこうと改めて思った。
当たり前にしていると決して感謝は見えてこない。
このブログを通して、日々の感謝を考えるきっかけにして欲しいとえーりは思う。
も お楽しみに~♪