薄まってはいけない
や〜なれ〜ぬ ふかなれ〜
最近スタッフミーティングで”や〜なれ〜ぬふかなれ〜”の話になって、それぞれの思うや〜なれ〜ぬふかなれ〜を話し合った。
その話になったキッカケは、お母さん自身がダメなものはダメ!と言えないこと。いやいやその前に何がダメなことなのかすらわかっていないということからはじまって、結局、や〜なれ〜ぬふかなれ〜に戻されるってことからだった。
ただ、や〜なれ〜ぬふかなれ〜はえーりにとって、あまりに当たり前すぎてどう説明すればいいかわからないことと、当たり前なのになぜか伝わりにくさも感じていた。
えーりの子供時代は、ダメに理由がなかった。
よく耳にしたフレーズ、返事は「見てわからんか?」だった。
そう、ダメの理由を説明してもらえるのではなく、見てわかることしかなかったのだ。駄々なんてこねようものなら一発食らうしかない。食らっても希望が叶うならよいが、聞き入れてもらえない上に、大人の数だけのゲンコツを食らうこともよくあった。
だからダメ!を受け入れるしかなかったのだ。
一番懲りたのはいじけた時だ。(;´・ω・)
希望も叶わない上に伯父や従兄弟からもゲンコツを食う。何よりも自我を通そうとする醜い態度の自分を経験するのだからそれは一度で懲りた。
お陰で、たくさんのダメを知ることもできたし、有難いことにダメへのセンサーも数の分だけ機能するようにもなって、今ではたんちゃー(短気)と思われているようだ。(心の声・・・いやいやたんちゃ~だな)
や〜なれ〜ぬふかなれ〜を直訳すると、“家庭での躾や習慣が外に出た時の鏡になる“ということだ。
ダメをダメと分かる。
人としての道理を学ぶ場が家庭であり、や〜なれ〜ぬふかなれ〜だ。
そんな 大事なや〜なれ〜ぬふかなれ〜 も時代とともに耳にすることもなくなり、今では死語になりつつある。
それは高度成長期の流れとともに高学歴、高収入を重視し、「や〜なれ〜ぬ ふかなれ〜ど〜」の声かけより「勉強しなさい」の働きかけが強くなったからだと思う。
その結果、学業優秀でも道理も分からず、人的感もない。挙げ句の果てには挨拶すらできない社会人も増えている。
それは若い人だけの問題ではない。
そう育てた親世代にも問題があるとえーりは思っている。
特に子を産み育てる母親が何をベースに育てれば良いのかがわかっていない。まず、それが大きな問題。
だから今、人としての道理、秩序を育む“や〜なれ〜ぬ ふかなれ〜“の復活が何よりも優先されるべきことだと思う。
はじめに、伝わりにくさを感じていると言っていたが、伝わりにくいのではなく、伝えきれていないだけだったと気づいた。
今は伝わるまで伝える! ただそれだけだと思う。
“や〜なれ〜ぬ ふかなれ〜“を大切だと思っているのは私。
“や〜なれ〜ぬ ふかなれ〜“は薄まってはいけないと思っているのも私だと気づいた。
日本の隅々まで、いや、世界の隅々までこの“や〜なれ〜ぬ ふかなれ〜“を浸透するまで伝えていくと改めて思ったスタッフミーティングだった。
★やーなれーぬ ふかなれーのそもそもの話は 沙織BLOG博美のおっぱい編で書いてるので、こちらも必ず読んでね!?
沙織BLOG
〇ひとつひとつ丁寧に
学んでいけるのが親力プログラム