箸に習う 「感謝と姿勢」

箸に習う 「感謝と姿勢」

5月今回のイチ押し記事は、えーり「お箸」の記事。
最近のミーティングで話されたことを書いてるんだけど、なんか私(幸美)はちょ〜うちあたいした。
なぜなら、食べる『食』というテーマ?は私にとって、気づきの入り口だったから。
これまで、生きるために食べて、身体を動かす、行動するために食べているのであって「美味しい」と「喜び」で食べているか?というと、そうではなかったから。

『食べ物の好き嫌いは人として間違ってる』と言われたことに繋がる。

今まで、何度か記事に書いてる言葉だけど、この時ほど、痛感したことはなかったと思う。

 

「食べ物の好き嫌いは人として間違ってる」
それは、今回のえーりの記事に答えを書いているので、ぜひ、読んで肝に刻んでほしい。
私自身、そして皆さん自身の「命」があるのは「命」を頂いているから。
だからこそ、自愛に繋がる。

「命」が「命」を頂く。
皆さんは、感謝で、箸を使っていますか?!

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最近、事務所でのミーティングで先生が箸にまつわる話をしてくれた。

毎日使っている“箸“

物心ついた時には使いこなしていて、当たり前の道具として捉えていた箸。

そんな身近な箸が とても意味深いものだということを話してもらった。

箸の由来はこの世とあの世との橋渡しをしてくれることから箸(橋)といい、生きている者と死んだものとを繋いでいるのが箸のだと教えてくれた。「そんな箸を乱暴に扱えるのはそもそも姿勢が違う!」と金城先生は厳しく言う。

これまで先生は幾度となく目の前の食事、食べ物は自らの命を差し出し、私たちの命を支えてくれていると話してくれていたが、この箸の由来を聴いた時、それがとてもリアルに感じられた。

差し出された命で私たちは生きられている!

えーりはそんな意味で目の前の食事を観たこともなければ、箸はただの便利な道具としか扱っていない自分の傲慢さに恥ずかしくなった。

 

そんな話をしてもらったしばらくたったある日、オジーが箸使いに厳しかったことを思い出した。

一度 こんなことがあった

えーりがまだ、幼稚園の頃だ。晩ご飯のおかずを温めていた時、箸についた野菜を落としたくて流し台のヘリで箸を叩いたことがあった。

その瞬間、オジーが「箸は叩かない!箸は叩くものではない!大事にしなさい!」と厳しく叱った。 大声で叱ったり 怒鳴ることなどないオジーが大声を出したのでえーりはすぐに謝りその場はそれで収まったが、それ以降 オジーは食事中にえーりを気にかけることが多くなっていた。

静かに目の前のご飯に集中して食べること、箸を器にぶつけて音を立てないこと、残さないことなど、静かにも厳しい眼差しで見てくれていた。

オジーは食事に限らずやることなす事のすべてが丁寧で、女性のように柔らかというか、動きに優しさを感じた。

えーりはオジーが何かしていると必ず傍に添って見ていた。オジーがやっていることは何でも見ていたいと思ったし、見ているだけで不思議に心地良く感じたからだった。

オジーの立ち居振る舞いに丁寧さを感じたのは 根底に感謝があったからだと今はわかる。

朝 起きる時“今日も一日元気に過ごそう“と清々しく雨戸開けから始まり、動ける身体に喜び、頑張った身体に“ありがとう“と感謝しながらお風呂に入る。そして最後に“今日も良い一日にでした”と感謝で眠りにつく。それがオジーに教えてもらったことだった。

それがオジーの毎日で、それがオジーは生きる姿勢。まさに自愛を生きていたのだと改めて思った。

 

自愛と感謝。 切っても切れない。

まずは、自分の命への感謝からはじめようと思う。

感謝の中にいると幸せの中にいるんだなってつくづく思う今日この頃。

箸で運ぶ一口ひとくちに感謝。

オジーの「ぬーやてぃん、ちゃーありがとうどぉー」を深く心に刻もうと思う。

※何でも、いつでも ありがとうだよ

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真志喜 恵里子

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