還元祭 その㊷  EnRich22号  掃除さえできれば・・・恵里子の反抗期

還元祭 その㊷ EnRich22号  掃除さえできれば・・・恵里子の反抗期

HAPPYBLOGファンの皆さんおはようございます~~。
久々の還元祭だよーーー。
今日はね、ビックテーマ『人格と性格』((+_+))
このテーマは、大人しか語れない・・・と先生に言わしめたほどのテーマ。なぜなら、このテーマで「向き合う」ことができるかできないかで・・・、大人への階段を上る・・・?いやいや5次元への扉が開くかどうかほどのもの。

かつて、親力プログラムをスタートした頃に、このテーマでセミナーをしたら、生徒さんが一気にいなくなったんだよね。(向き合いたくないってことね・・・(-“-))
このテーマで向き合うということは「自分自身と向き合うこと」『自分を知る』そして最大の難関は、『親切』して、自己責任を持つことに繋がるから。

だから、無意識にも「子供気分」でいたいと根本にあるなら、辛く、苦しい取り組みになる。

沙織ブログを読んでほしいけど、沙織の親切は『愉快・痛快・爽快』だって言ってる。だから、みんなのイメージ自体が暗い(‘Д’)ってこと。
タイトルこそ「VIVA反抗期!!」のこの号、ぜひ、ぜひ「親切」に繋がるこのテーマ読んでほしいし、また友達にも勧めてほしいです。
で、今日の紹介記事は、親力プログラムの一説。
恵里子さんの記事だよーーー。

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P34 それって人格? それとも性格?
記・真志喜恵里子

私は学生の頃から友人たちの間では神経質な性格だと言われ続けてきました。私の中ではごくごく当り前のことで、内心ではこれは気配りなのだと思っていました。
社会人になるとその神経質さが役に立つこともありました。新人看護師時代は前もって仕事の準備を整えていたので、先輩方からは気配り上手で助かると言われていました。

しかし、指導する側になるとその気配りは逆転。神経質すぎて後輩たちを緊張させてしまうまでになりました。この神経質さは生まれ持った性格だと思っていた私は、これは生涯変わることがないものだと思っていました。

ところが、自分自身を見直すことによって、それまで神経質な性格だと思っていたものが、後天性の人格の部分であることに気づいたのです。それに気づくキッカケになったのが新婚当初、部屋にカビをはやした出来事です。

その出来事は、セミナーの中で人格のなせる技として度々話し、エンリッチ20号では「対立欲望と反動価値」。21号では「承認」でも書かせてもらいました。
今回は、その出来事を通して理解の深化が起き、人格と性格の勘違いに気づいたプロセスをお伝えしたいと思います。

 

新婚当時、私は看護師の仕事をしていて、通勤には片道40分かけて歩いていました。自宅に着くと直ぐに夕食作りに取りかかり、次々と家事を片づけていきます。一日の終わりは雑巾がけ。
その頃の私は、どんなに疲れていても掃除が済まないうちは眠れないタイプで、雑巾がけは壁から畳までしっかり拭いてから寝るという。そんな毎日でした。
ある日、帰宅して玄関に入ると、部屋の異様さを感じました。薄暗い部屋全体がなぜか青く見えるのです。よ~く目を凝らして見てみると、なんとそれは壁と畳にできた青カビで、夜遅くの雑巾がけが原因でした。
鉄筋コンクリートにアルミサッシでは気密性が高すぎてカビが生えることは当然のことで、少し考えれば解かる事ですが、当時の私にとって掃除をすることで心を落ち着かせていたので、欠かすことの出来ないものでした。
それは、幼い頃からの母親の躾に関係しています。母は躾に厳しく、特に掃除に関して少しの妥協も許さない人でした。四角い部屋を丸く掃こうものなら何度も何度もやり直しです。多少の埃は仕方ないと思うのですが、母にとってはそれもあってはならないことでした。ほうきだけでは不十分。雑巾がけできれいに仕上げる。しかも毎日です。そこまでする必要があるのかと、しばしば尋ねることもありましたが、その度に「これが常識なんだから黙ってやりなさい」と返されました。
毎度母が口にする「常識だから」の言葉に違和感がありました。納得いかない。でも、どう返したらいいのかも解らない。その繰り返しです。
その時、何でもいい。何か一言でも発していたら、自分の気持ちを伝えるきっかけを掴むことができ、その後の人間関係に本来の自分らしさで接していたでしょう。何か一言でも発する。それを言い変えると、自分自身を奮い立たせる反抗期です。

ではなぜ、私が反抗できなかったのか。それは、母に嫌われたくないという想いが強くあったからです。私に限らず、母親という存在は子供にとっての生命線です。その生命線である母親に嫌われることは子供にとってとてつもない恐怖です。

母に愛されたい。好かれたい。認められたい。だから掃除を頑張る。それは私の希望にもなりました。掃除がきれいにされていれば母は喜び、私を愛してくれるという希望です。

掃除がきれいにできていれば、家の中に入った瞬間母の顔はほころぶ。疲れもいっぺんに吹き飛んでしまい、笑顔になると思うと、さらに頑張れるのです。これも私に限らず、どの子供にもいえることです。母親の笑顔は子供にとって生きる希望そのものだから・・・。

しかし、私がどんなに頑張っても褒められたことは一度もありませんでした。埃を完全に取り除く事なんて不可能なことだからです。

母は仕事から帰ると直ぐに掃除が出来ているかをチェックしては出来ていない事だけをとがめました。  そのチェックの時、私は一番緊張しました。怒られたらどうしようの不安と、「よくできたね」と言ってくれるかもしれないという期待が交差するからです。
きれいにできていないと何度もやり直しをさせられるのですから私にとって、とても嫌なことでしたが、今日がダメでも、明日こそは・・・と思えたのは、母に認められたいという想いがあったからです。早くきれいにできるようになって褒めてもらおう。褒めてもらいたい気持ち。それは誰にでも当たり前にある愛されたい。好かれたいの生理的欲求です。それが私を支えていたのです。

母に認めてもらえないことで私の生理的欲求は、次第に母に嫌われてしまうのではないかの不安に変わっていきました。掃除で家の中がきれいになって気持ちいいなんて思う余裕などありません。ただただ、母に怒られないようにということだけが気になるのです。夕方になると、母に怒られるのではないかという緊張で落ち着かない。完全に情緒不安定の状態です。

 

そんな不安の毎日に、私は次第に掃除に対して強迫観念を抱くようになり、幼い妹弟が散らかすことにも苛立つようになりました。掃除を済ませた後にお菓子を食べられるがとても嫌だったのです。必ずと言っていいほど食べこぼすからです。まだまだ小さいから仕方ないと思う一方で、また、私だけが怒られると不安になったのです。

 

 

この時点で母の影響を受け、母同様に掃除に囚われはじめていることが明らかですが、子供の私には、自分がそんな状態になっているなんてことに気づくことはできません。見直さなければならない事は必ず考えさせる出来事として起こるようになっています。それがしくみだからです。

ある日、掃除をする、しないで、妹と喧嘩になったことがありました。
その時、妹は「掃除をするのが嫌なら、あなたもしなければいいさ。私は怒られてもいいから遊ぶ」と私に反発。

元々、妹が掃除当番です。掃除をしない妹の代わりに、やった私が怒られている。そんな私に対して、そんな言い草はないだろうと、一瞬、カチンときたのですが「怒られてもいいから遊ぶ」と言った妹の言葉にハッとしました。

正しい、間違いに関係なく、自分の想いを言い切り、「遊びたい」という希望を叶えた妹のことが羨ましく思ったのです。妹は、私の胸を借りて自分自身を奮い立たせる「反抗期」を経験していたのです。

一方、嫌われたくない一心で反抗もできず、掃除をしなくてはいけないという強迫観念から抜け出せない私は、さらに母の言動一つひとつに過敏に反応していきました。
同じ親の元に生まれながら違う人格になるのは、その人本来の性質、性格の違いにあります。

私は、人の意見を受け止める。受け入れるという性質、性格があります。一見、温厚のように見えますが、裏を返せば、自分のことよりも他者を優先にするということです。他者を優先にするという私の性質、性格が、母という環境の影響を受けて、私の人格をつくったということです。

反抗期は自分の想いや、どんな希望を持っているのかを気づかせ、自分らしさに導く素敵なものであると同時に、本来の自分の性質、性格を知る手掛かりでもあるのです。本来の自分を知ることは、人間関係を豊かにしていく上でとても重要です。

反抗期のなかった私は自分の想いや希望に気づかないまま、母に従い、掃除に囚われ、異常なまでに神経質になっていましたが、妹と喧嘩から数日たったある日、私はある行動を起こしました。

それは、「遊ぶ」という事です。なんてことはないと思われるでしょう?でも、私にとっては一大決心でした。
その日、今日は思いっきり遊ぶと決めていたからか、不思議と母に怒られる不安が一切ありませんでした。思いっきり遊んで大満足の私は猛ダッシュで帰りました。頭の中は家事の段取りがはじけていましたが、何の苦にもなっていませんでした。

家に着くと家の中は暗く、誰の気配も感じません。私は一瞬で寂しくなりました。暗さに目が慣れてくると弟だけが寝ていました。よほどお腹がすいていて魚肉ソーセージを食べようとしたのだと思います。
ところがビニールが剥がされず、諦めたのでしょう、弟は口にくわえたまま寝ていました。その弟の頬には涙の跡がありました。
それを見た瞬間、私は、幼い弟にこんな事をさせてまで遊びたいと思っていたのかと思うと、自分自身に腹が立ちました。そんな事ではない! そう心の中の叫んでいると、これまでの私の中にあった子供の部分が木端微塵になりました

そして決めたのです。家事の一切を私が引き受けると。その時の想いはガツンと腹に納まりました。これが、自分次第、主体が私に還る主体変容です。
書きながら気づいたことですが、確かに母には口頭による反抗期はありませんが、思いっきり遊んだことは、独り反抗期だと私は思っています。

これらの経験や体感があったとしても、人は自分自身を見つめることがなければ、本来の自分を知り得ません。自覚ができないのです。私に自覚を与えてくれたのが金城先生でした。

それは金城先生の「ところで恵里子さん、掃除好きなの?」の問いかけからはじまりました。
その問いかけは毎日続きました。何度も聞かれるうちに私自身、掃除が好きなのか、どうなのかまったく解らなくなっていきました。

今では笑い話になっていますが、スタッフ一人ひとりに「私、掃除嫌いなの?」と聞きまくるほどでした。
それが何カ月も続いたある日、自分自身への問いかけが起こり、子供の頃から母に抱いていた違和感を思い出したのです。

それは、母が大事にしていたきれいに掃除しなければならないという常識に対しての違和感でした。

 

私は、それまでその常識を疑うことなく大事にしてきましたが、実はそれは母の価値観で、私の価値観ではなかったのです。母の価値観を自分の価値観だと勘違いしていたのです。
人の行動の基準は価値観にあります。私が信じた母の価値観、それに沿って生きていたことに気づかされました。それに気づいた瞬間、母の価値観と私が切り離されました。
母の価値観と私自身を切り離した後に、改めて掃除を見直していくと、私なりの掃除への想いがあることに気づきました。

私にとって、家は大切な家族との団欒の場です。そんな大切な場だからこそきれいにしていたいということが、私の本当の想いだったことに気づけました。そして、躍起になって、とことんやってきたからこそ気づけたことですが、大切な家族が心からくつろげる掃除がどんなものであるかも解り、そこに居る人を大切にしながら掃除が出来るまでになりました。

人格と性格を見極めようと記事に取り組みましたが、結局、人格は親や環境の影響をどう性格が受け取ったかでつくられていることが解りました。

以前から一刀両断の宮良には、しきりに「なんで人の言葉を鵜呑みにするの?」と訊ねられていました。
不思議にその言葉だけは鵜呑みにできない私でしたが、見つめ直した今は、「あは~」とうちあたい(沖縄の方言で、思い当たること)しています。
宮良が言いたかったことは私が「素直」な性格で「素直」に人の言う言葉を聞き入っている私がいる。でも「鵜呑み」を本当にうのみにするのではなく、なぜ? そう思うのか? なぜ相手がそう言うのか「確認する」ということの大事さを言っているのだと理解出来ました。

書き進むにあたり、自身を見つめる作業の大切さと、金城先生が「あなたが想うあなたより、僕が想うあなたの方が美しい」の言葉の意味が深く広くなっていくように感じています。
自分を人格形成の観点から理解することと、性格形成から見ることは、とても自分自身を明確に理解することになります。

人格は後天性で環境の影響を強く受けてつくられるもの。性格は先天性で生まれ持ったその人の個性的性質であること。そのガイドラインに沿って見直すことで、とてもシンプルな自分への理解が起こるのです。
対人関係の基礎は子供が最初に関わる母親との関わりをベースに対人関係が育まれていくのです。

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【各号目次】
EnRich22号

生きる目的 心の声 10
実践編「心の声を聴く講座」
親力プログラム 「人格と性格、そして反抗期」
◆反抗期の秘密 小堀美奈子
◆それって人格 それとも性格? 真志喜恵里子
社会的な人格、本当の性格    宮良幸美

◯1010HAPPY倶楽部
◆ママ見て! だから見て!池原由貴子

スペシャル対談 (後編)
佐野浩一×金城幸政

◯われらが地球計画書
◆“承認”にまつわる幸せ神話

○えりこの天然幸母
◆「なんくるないさ・・・」

◯読者の広場より
◯今月のみ〜ぱちくり!?

 

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